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「人はなぜ殺すか~狩猟仮説と動物観の文明史~」(マットカートミル著、新曜社)
以前読んだものですが、印象に残っていることをメモしておきます。

・狩猟仮説
元来人類の祖先は森林地帯で肉食に頼らず生活をしていた。しかし、ある時期に二足歩行を身につけ、森林から草原に生活の場を変えた。その結果人類の祖先は草原にいる動物を捕食するようになった。狩猟の起源である。狩猟の誕生は、人類をより効率的なハンターにするために、集団内での協調やチームプレイを強いた。こうして脳の働きを活発化させることで、人類は飛躍的に進歩した。だが同時にそれは人類をより効率的なハンター、つまり優れた捕食者にすることで、人間に冷酷さや攻撃性を与えるきっかけになった。そして、それらこそが結果的に今の人間の暴力性、残虐性の原型である、という説。

簡単にいうと今の人類の暴力性の起源は狩猟に認められる、という説。

・狩猟の意味の変遷

・雌鹿のイメージ
ギリシア・ローマ時代は臆病者の象徴。しかし次第に、それは性欲の対象の象徴or恋愛のメタファーに変化した。

・狩猟と強姦
「捉えられるのを避けることに必死になった生命に対する唯一の反応はそれを捕まえようとすること」(byオルテガ、多分)
→狩猟の内的構造は強姦と同じ?or狩猟は強姦の象徴?

・狩猟はカニバリズム?
人間と自然を分かつ境界線がなくなると・・
「コーカサスを知るための60章」(北川誠一他編著、明石書店)
コーカサスといってもあまり馴染みのない地域ですが、漠然と興味があったので読みました。

とはいえ無味乾燥で正直魅力があるとは言い難い内容でした。(実際20章でドロップアウト。)アマゾンの書評に「新聞記事の寄せ集め」とあったような気がしますが、的確な表現です。

ただ気付いたことは、コーカサスを理解するには、その地政学上「ロシア」からのアプローチ、「トルコ」からのアプローチ、「イラン」からのアプローチが重要だということです。カッコつきからもわかるように、ビザンツ、ソ連は「ロシア」からのアプローチに組み込む、などといった応用はもちろん必要ですが。

今度は魅力溢れるコーカサスの本に出会いたいものです。ご存知の方いらしたら情報下さい。




昨日の続きです。

■ブルクハルトの同時代批判
・フランス革命を境にヨーロッパは伝統と断絶して不安定な時代に入った。→19世紀の「暫定性」

・大衆批判
→貴族主義的な立場からの大衆批判。「昔は愚か者にしろ、自分自身の力で愚かだった。」「われわれが直面しているのは、一般的な平準化である。」

・アメリカ流ビジネスへの批判

・国家の肥大化への危惧
大衆民主主義の登場と普及が国家の肥大化を招き、ついには暴力支配に行き着く「大衆専制主義」に反転すると主張した。
というのも大衆が願望する幸福とはきわめて物質的であり、その願望は決して満たされない。そこで大衆は国家の福祉のもとで改革を求め続け、それが結局国家の肥大化をもたらす。

■ブルクハルトの歴史観
人間の精神は変わらざる人間性に根ざした恒常的な側面をもつ一方で、他方で時代とともに変わる側面(歴史的側面)をもっている。

歴史的側面から考えると、精神はそれ自身が変わっていくと同時に、そのときどきの精神に見合った「生活形態」を樹立する。ここでいう生活形態とは今っぽくいうと「システム」(cf.マトリックス)。

しかしこのような「生活形態」も永久に持続するわけではない。人間の精神は一箇所にとどまることなく動き続けるので、かつてその時代の精神に見合う形で樹立された「生活形態」は新たな精神との間に矛盾や齟齬をきたすからだ。そして一旦「生活形態」の破綻が起これば世界は没落する。その間にも、精神はその新しい状態に見合った「生活形態」を構築する。ただしこの「生活形態」もいずれは同じ運命をたどって没落する。

このように精神が働き続け、一旦構築した「生活形態」を崩壊させているのが歴史の姿であり、これを歴史の「主要現象」とした。

ただしこのような歴史の「主要現象」に明確な到達点はない。というのも人間は自然界の闘争と連続する原始的な獣的側面を失っていない以上、この人間の精神を原動力にして動く歴史が、一つの目的に向かって動く合理的な過程を示すわけがないからだ。⇔進歩史観

「もしもすでに過去に一人の人間が他の人々のために命をささげたとするなら、それ以後それを超えたためしなどない。」したがって、人間の倫理性が「進歩」したという考え方は全くの誤謬。

また「われわれの現在の道徳全体が、これらの安全性に方向付けられている。」といい、同時代の人間が「安全性」を観点に、過去の歴史の「幸」「不幸」を判断するのを批判した。この批判はもちろん今の私たちにも十分通用する。結局人々が歴史に対して発する「幸」「不幸」は、各人の気まぐれなエゴイズムに過ぎないとした。

今日はこれまで。。。


「歴史をいかに学ぶか ブルクハルトを現代に読む」(野田宣雄著 PHP新書)のまとめです。

・進歩史観の凋落
20世紀支配的であったマルクス主義流の進歩史観と(西欧風)自由主義的な進歩史観が、ここにきてともに衰退している。
→ソ連の崩壊によるマルクス主義の行き詰まり。
 冷戦以後の数々の紛争、弊害による自由主義的な進歩史観の限界。(フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」にみられる短絡さ)
⇒進歩史観を基にした人生設計の限界
ex.日本における若者の無気力さ

・ギリシア・ローマにおける循環史観
ヘロドトスやトゥキディディスの著作にみられるのは、歴史を「変わらざる人間本性の繰り返し」とみなす循環史観。

・アウグスティヌスの歴史観―進歩史観の原型1―
アウグスティヌスはギリシア的な循環史観を退けて、「始まりと終わりをもち、一つの目標をめざす進行過程としての歴史観」を構築した。彼にとって歴史の始まりとは世界の創造と人間の堕罪であり、歴史の終わり(目的)は最後の審判と復活であった。

・フロリスのヨアキムの歴史観―進歩史観の原型2―
歴史は三つの秩序段階をえて究極の目的にすすんでいく。

・ボシュエの歴史観―進歩史観の原型3―
彼の歴史観のきもは摂理史観をとり、諸帝国の興亡にはそれぞれ特殊な原因があるとしながらも、そこには神の意志が示されているというものである。統治者の一段高いところで神の意志が働き、統治者達を導いていると考えた。cf.ヘーゲルの「理性の狡智」

・ヘーゲルの歴史観
「理性」ないしは「世界精神」が歴史を高みから一つの目的に向けて操っている。そしてその目的とは人間の完全な自由の実現となる。→「理性の狡智」

・マルクスの歴史観
すべての歴史を「階級闘争の歴史」ととらえて資本主義社会におけるブルジョアとプロレタリアートの対立はプロレタリア革命に行き着く。そしてこれにより「人間社会の前史」が完結し、プロレタリア独裁のもとに共産主義という最高の共同体が到来するという歴史観。
→ここにはマルクス主義が「科学」を標榜しながらも、その内部においてはユダヤ・キリスト教的な終末論的な歴史解釈を引き継いでいる。

・ヴィーコの循環史観(cf.「新しい学」)
ヴィーコは諸民族それぞれが誕生から没落までの過程をほとんど法則的に繰り返し、その全体が歴史に他ならないと考えた。彼のきもは、民主的な文明社会に到達した民族が再び原始状態に引き戻されるとしたこと。ただし各民族の誕生から滅亡に至る歴史を全く同じサイクルの繰り返しとは考えない。宗教的な要素を考慮し、各文明の独自性を重視する。
→螺旋的な循環史観

・シュペングラーの循環史観(cf.「西洋の没落」)
西欧中心の直線的歴史観を批判。巨大の文化の興亡のドラマとして歴史を描く。彼は文化を限られた寿命をもった生物体であり、最後は必ず死滅するとした。そしていずれの文化も誕生から死滅にかけての過程で、必ず同じ段階を踏み、各時代で相似た人物や事件を生み出すとした。例えばギリシア・ローマ文化では秋から冬の段階にあたり、アレクサンダー大王が登場し、一方西欧文化では同段階にナポレオンが現れた。

このような異なる文化間の人物や事件における「相同」関係の一方で、各文化はその核心に固有の「魂」あるいは「世界感情」有しているとした。そしてそれらの違いこそが各文化の違いを生み出す根源的要素であるとした。たとえばギリシア・ローマ文化では、この世界は肉眼で把握しうる限定的な大きさをもったものを単位として成り立っているという「アポロン的魂」が存在する。一方西欧文化では、あくまでも無限のものを志向する「ファウスト的魂」が存在する。これらの違いは各文化の神の観念や、国家のあり方、数学の性格にまで「形態」として現れてくるとした。

話が少々それましたが、彼のきもは全ての文化が死滅を免れず、西欧文化も例外ではないとしたことです。

今日はここまで。。。



「シャーマニズムの精神人類学 癒しと超越のテクノロジー」(ロジャー・ウォルシュ著、春秋社)のまとめです。

正直面白くないです。同じような内容の繰り返しが多く退屈しました。だからまとめも途中までです。

・シャーマニズムは精神病?
伝統的な見解ではシャーマニズムは分裂病やヒステリー、てんかんの一種と考えられていたそうです。トランスパーソナル心理学者の筆者はそれらに対して「断定はできない。」として反論します。筆者は医学博士でもありますのでこの辺りの話はかなり具体的です。(だから素人は退屈する。)

・シャーマニズムの定義とその特徴
①シャーマンは自発的に変性意識状態に入ることができる。
②そうした状態の下で異界への「旅」を体験する。
③そうした旅を、知識や力を手に入れ、共同体の人々を助けるための手段として利用する。
④霊との交流を行う。
⑤日常的には隠されたリアリティと接触する。

またシャーマニズムは価値観や教義よりも、その実践法や体験の方に焦点をあてたもの→宗教ではなく宗教的伝統というべきもの。しかもシャーマンの個人的体験が非常に強調される。

・起源 ―人間の本質から考えて―(実はここら辺が本書の肝です。)
シャーマニズムは世界最古の伝統の一つだが、正確な起源は分からない。
また世界中に広範に分布しているにもかかわらず、シャーマンには著しい共通性がある。→その共通性はどこから来たのか?

・それぞれの場所で自然に生まれた。→そこには人類が本来的に共有している傾向性ないしは周期的な社会ニーズがあった。

・そうではなくて共通性は同じ祖先をもつ人々の移住や分散によって生じた。→言語や社会的慣習の変化を考慮すると移住だけで説明は難しい。

⇒一つ目の考察のほうが理にかなっている。
社会的な力と人間の本来的能力が反復的に結びついたことでシャーマニズムは維持されてきた。

具体的に説明すると・・
・人間には本来的に超越したものや霊的なものを求める欲求が備わっている。
→心理学的にみてもそれらは人間に「癒し」を与える。

・一方長い歴史の中で人間は自然発生的に覚醒夢、体外離脱体験、臨死体験(死と再生の体験)などと遭遇してきた。さらに向精神性植物(cf.LSD)や原始的なドラム音などにより変性意識状態に。
→人間は本来的能力としてトランス状態に入り、超越的なものを獲得できる。

・とはいえ全ての人間がうまく「覚醒」できるわけではない。同時に古代の集団においては「覚醒」した聖者たる人間が集団全体のために必要。(異界へ「旅」をして悪霊と話をつけたり、神の怒りを静めるため。)
→こういったことがシャーマンという特別な存在に対する社会的需要に。

上記の三つがむすびつきシャーマンを各地で自然発生させた。そしてそれらは人間に共通する根源的な傾向性と社会需要に基づいているので、各地のシャーマンは共通性をもちながら維持されてきた。

※最後に・・
「超越的なものって何?」という質問に対して

「天国はあなたの内にある。」とだけ言っておきます。
  
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