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「歴史をいかに学ぶか ブルクハルトを現代に読む」(野田宣雄著 PHP新書)のまとめです。

・進歩史観の凋落
20世紀支配的であったマルクス主義流の進歩史観と(西欧風)自由主義的な進歩史観が、ここにきてともに衰退している。
→ソ連の崩壊によるマルクス主義の行き詰まり。
 冷戦以後の数々の紛争、弊害による自由主義的な進歩史観の限界。(フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」にみられる短絡さ)
⇒進歩史観を基にした人生設計の限界
ex.日本における若者の無気力さ

・ギリシア・ローマにおける循環史観
ヘロドトスやトゥキディディスの著作にみられるのは、歴史を「変わらざる人間本性の繰り返し」とみなす循環史観。

・アウグスティヌスの歴史観―進歩史観の原型1―
アウグスティヌスはギリシア的な循環史観を退けて、「始まりと終わりをもち、一つの目標をめざす進行過程としての歴史観」を構築した。彼にとって歴史の始まりとは世界の創造と人間の堕罪であり、歴史の終わり(目的)は最後の審判と復活であった。

・フロリスのヨアキムの歴史観―進歩史観の原型2―
歴史は三つの秩序段階をえて究極の目的にすすんでいく。

・ボシュエの歴史観―進歩史観の原型3―
彼の歴史観のきもは摂理史観をとり、諸帝国の興亡にはそれぞれ特殊な原因があるとしながらも、そこには神の意志が示されているというものである。統治者の一段高いところで神の意志が働き、統治者達を導いていると考えた。cf.ヘーゲルの「理性の狡智」

・ヘーゲルの歴史観
「理性」ないしは「世界精神」が歴史を高みから一つの目的に向けて操っている。そしてその目的とは人間の完全な自由の実現となる。→「理性の狡智」

・マルクスの歴史観
すべての歴史を「階級闘争の歴史」ととらえて資本主義社会におけるブルジョアとプロレタリアートの対立はプロレタリア革命に行き着く。そしてこれにより「人間社会の前史」が完結し、プロレタリア独裁のもとに共産主義という最高の共同体が到来するという歴史観。
→ここにはマルクス主義が「科学」を標榜しながらも、その内部においてはユダヤ・キリスト教的な終末論的な歴史解釈を引き継いでいる。

・ヴィーコの循環史観(cf.「新しい学」)
ヴィーコは諸民族それぞれが誕生から没落までの過程をほとんど法則的に繰り返し、その全体が歴史に他ならないと考えた。彼のきもは、民主的な文明社会に到達した民族が再び原始状態に引き戻されるとしたこと。ただし各民族の誕生から滅亡に至る歴史を全く同じサイクルの繰り返しとは考えない。宗教的な要素を考慮し、各文明の独自性を重視する。
→螺旋的な循環史観

・シュペングラーの循環史観(cf.「西洋の没落」)
西欧中心の直線的歴史観を批判。巨大の文化の興亡のドラマとして歴史を描く。彼は文化を限られた寿命をもった生物体であり、最後は必ず死滅するとした。そしていずれの文化も誕生から死滅にかけての過程で、必ず同じ段階を踏み、各時代で相似た人物や事件を生み出すとした。例えばギリシア・ローマ文化では秋から冬の段階にあたり、アレクサンダー大王が登場し、一方西欧文化では同段階にナポレオンが現れた。

このような異なる文化間の人物や事件における「相同」関係の一方で、各文化はその核心に固有の「魂」あるいは「世界感情」有しているとした。そしてそれらの違いこそが各文化の違いを生み出す根源的要素であるとした。たとえばギリシア・ローマ文化では、この世界は肉眼で把握しうる限定的な大きさをもったものを単位として成り立っているという「アポロン的魂」が存在する。一方西欧文化では、あくまでも無限のものを志向する「ファウスト的魂」が存在する。これらの違いは各文化の神の観念や、国家のあり方、数学の性格にまで「形態」として現れてくるとした。

話が少々それましたが、彼のきもは全ての文化が死滅を免れず、西欧文化も例外ではないとしたことです。

今日はここまで。。。



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