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FPN-モバゲータウンは次世代のミクシィになるのか?
まなざしの快楽~「合理化のジレンマ」の章 - モバゲータウンはなぜ薄気味悪いのか

今巷で話題のweb2.0的錬金術「モバゲータウン」についての考察です。その狡猾なシステムや経済的効用については言及せずに、アバターと身体感覚の関係から考察していきます。

まずアバターに反映されるのは、(ことさら容姿に)多感なティーンの理想の身体像でしょう。彼らの変身願望をそれぞれのアバターは一身に背負ってくれる。

そこで健全な若者は気付いているはず。「戯れは戯れ。現実は現実。」と。

しかし自意識と自己愛が過剰な若者はどうでしょうか。往々にして彼らは自分の身体に汚れの感覚をもっている。自意識と自己愛はいつもその人に理想を志向させるからです。

一方アバターには汚れはない。自分が本当に愛することができる身体がそこにはある。

しかもその身体がある場所は、決して従来のゲームなどと違い、他者との関係性が存在する、逆説的にオープンな場所です。アバターによる身体感覚はその関係性により、ますます確固たる、信頼できるものになる。

モバゲーが直メールやオフ会を厳禁していることがこれに拍車をかけます。現実から隔離されたクローズドな世界としての独立性を維持できるからです。

これら一連の状況が何をもたらすか?それは現実世界における身体感覚の曖昧化です。

モバゲータウンで一日中「暮らし」ているわけではないでしょう。だから現実での身体感覚が喪失とは考えにくいです。むしろぼやける感じです。

この曖昧化は単にその人の身体感覚だけに及ぶものではないでしょう。身体は常に世界に「隣接」、いやむしろそれにぴったりと「張りついて」います。そのため身体の曖昧化は、次第にこっちの世界をぼやけさせ、ついでに「こちら」と「あちら」の境界線をも曖昧にするでしょう。

ただこれはよく言われていることですね。現実と非現実の混同という風に。

しかし真にモバゲーが恐ろしいのは、従来と違い、それらが混同されても、なお非現実、「あちら」の世界は自己完結的な関係性を抱え込んでいるために、世界の曖昧化を拒むことができるということです。言い換えればクローズドで独立したモバゲーは、いまだに各人の強固な身体感覚で維持されているのです。

つまり現実での生活がぼやけてきても、対照的にモバゲーではその人の意識は―その身体感覚とともに―明瞭なのです。DeNAという会社が作ったマテリアルによるハンドメイドの身体とともに。
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私はついつい人間の一部の行動を「原始的」だと形容し、人間の動物性を必要以上に主張しがちなのですが、ここには大きな誤謬があると気付きました。

特に人間の行動のうち一般的な道徳律に反すると考えられる行為について語る場合は。
残虐性、エロティシズム、侵犯などなど。

というのも動物には死の意識、感覚があるか疑わしいからです。本能で死を回避することがあっても人間のように死に聖性を感じているとは考えにくい。

また逆に動物は人間のように死体に嫌悪感や穢れを感じることもないでしょう。

これらの死(死体)に対する意識の差が何に影響するか、それはやはりエロティシズムです。エロティシズムは残虐性や侵犯をも内包し、かつ死の聖性をもっとも反映すると考えられるからです。

そして聖性というからには、エロティシズムは、人間の死の感覚を基軸に宗教と本質的に同じ様相を帯びてきます。

ホント面白いですね。人間の非理性的なものの探求は。



  
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