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「ウェブ人間論」(梅田望夫、平野啓一郎共著、新潮新書)の第一章を読んで。

web2.0以後の世界に楽観的な梅田さんと、それに対して懐疑的な平野さんの対談。

一番印象に残ったのは「ネットは国の壁は越えられるが言語の壁はなかなか越えられない」の箇所。

そう考えると英語圏やフランス語圏というのが、ネット上の言語の大陸になるかも知れない。同時に日本語は日本人しか使わないから、その意味で孤立する可能性もある。ハンチントンの「文明の衝突」で言われているようなことが現実化してしまうのだ。

ちなみにこの状況をよりラディカルに捉えるとこんな未来が待っている??
分裂勘違い君劇場 ~2026年、言葉の壁で日本沈没~ 

だがあえて言おう。「英語の習熟度の差が国の競争力の決定的差ではないこと教えてやる」と。

ただここにはさらに興味深い現象があるかもしれない。それはポストコロニアリズムからの観点である。

つまりフランスの旧植民地の国々の人々が、ネット上のフランス語を介して、自分達独自の言い回しなどを失っていく可能性があるということだ。これは逆に言えば、フランス本国の「正統な」フランス語による再征服とも解することができる。

こういったことは本来web2.0がもつ「脱中心化」という性質と全く逆の現象であり、結局web2.0も世界をフラット化するようにみえても、本質的にはクローズドな文化的階層に基づく秩序をもたらしてしまうのか、とも考えてしまう。

ただgoogleが人力以上の自動翻訳を作ったら杞憂に終わるのだが・・(実際それはgoogle先生でも困難に思える。)

あとやっぱりユーザー数の増加による「衆愚化」についても言及されてた。だけどこれは群集心理から考えたら解決不可能だと思う。だからユーザーの属性を限定したSNSやソーシャルブックマークとかの需要が今後も伸びていくのか。

そう考えていくと世界が標準化されていくようにみえるのも、実は表層的なイメージに過ぎないのかとも思ったりする。

オープンであればあるほど、クオリティの高いものが生まれるというweb2.0の黄金律について、ついつい懐疑的になってしまう今日この頃です。





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FPN-モバゲータウンは次世代のミクシィになるのか?
まなざしの快楽~「合理化のジレンマ」の章 - モバゲータウンはなぜ薄気味悪いのか

今巷で話題のweb2.0的錬金術「モバゲータウン」についての考察です。その狡猾なシステムや経済的効用については言及せずに、アバターと身体感覚の関係から考察していきます。

まずアバターに反映されるのは、(ことさら容姿に)多感なティーンの理想の身体像でしょう。彼らの変身願望をそれぞれのアバターは一身に背負ってくれる。

そこで健全な若者は気付いているはず。「戯れは戯れ。現実は現実。」と。

しかし自意識と自己愛が過剰な若者はどうでしょうか。往々にして彼らは自分の身体に汚れの感覚をもっている。自意識と自己愛はいつもその人に理想を志向させるからです。

一方アバターには汚れはない。自分が本当に愛することができる身体がそこにはある。

しかもその身体がある場所は、決して従来のゲームなどと違い、他者との関係性が存在する、逆説的にオープンな場所です。アバターによる身体感覚はその関係性により、ますます確固たる、信頼できるものになる。

モバゲーが直メールやオフ会を厳禁していることがこれに拍車をかけます。現実から隔離されたクローズドな世界としての独立性を維持できるからです。

これら一連の状況が何をもたらすか?それは現実世界における身体感覚の曖昧化です。

モバゲータウンで一日中「暮らし」ているわけではないでしょう。だから現実での身体感覚が喪失とは考えにくいです。むしろぼやける感じです。

この曖昧化は単にその人の身体感覚だけに及ぶものではないでしょう。身体は常に世界に「隣接」、いやむしろそれにぴったりと「張りついて」います。そのため身体の曖昧化は、次第にこっちの世界をぼやけさせ、ついでに「こちら」と「あちら」の境界線をも曖昧にするでしょう。

ただこれはよく言われていることですね。現実と非現実の混同という風に。

しかし真にモバゲーが恐ろしいのは、従来と違い、それらが混同されても、なお非現実、「あちら」の世界は自己完結的な関係性を抱え込んでいるために、世界の曖昧化を拒むことができるということです。言い換えればクローズドで独立したモバゲーは、いまだに各人の強固な身体感覚で維持されているのです。

つまり現実での生活がぼやけてきても、対照的にモバゲーではその人の意識は―その身体感覚とともに―明瞭なのです。DeNAという会社が作ったマテリアルによるハンドメイドの身体とともに。
私はついつい人間の一部の行動を「原始的」だと形容し、人間の動物性を必要以上に主張しがちなのですが、ここには大きな誤謬があると気付きました。

特に人間の行動のうち一般的な道徳律に反すると考えられる行為について語る場合は。
残虐性、エロティシズム、侵犯などなど。

というのも動物には死の意識、感覚があるか疑わしいからです。本能で死を回避することがあっても人間のように死に聖性を感じているとは考えにくい。

また逆に動物は人間のように死体に嫌悪感や穢れを感じることもないでしょう。

これらの死(死体)に対する意識の差が何に影響するか、それはやはりエロティシズムです。エロティシズムは残虐性や侵犯をも内包し、かつ死の聖性をもっとも反映すると考えられるからです。

そして聖性というからには、エロティシズムは、人間の死の感覚を基軸に宗教と本質的に同じ様相を帯びてきます。

ホント面白いですね。人間の非理性的なものの探求は。



アドリア海の真珠


嵯峨野の竹林


ドゥブロヴニクと嵯峨野、すばらしい対照。

ちなみにドゥブロヴニクでは、Roma Alta Moda disk2の14曲目のCanto de Orfeo byEspiritoがよさげですね。

嵯峨野では、Talkie Walkie by Airの10曲目Alone In Kyotoがピッタリそうです。

だけど上の二つの場所は「例えば・・」の話に過ぎません。本当はこれが言いたかっただけです。


世界にはこんな風に美しくて、感情を揺さぶる場所がいくつもあるのに、人間にはいつも限界がある、その閉塞感に似た感じが憂鬱ですね・・







「文明の生態史観」(梅棹忠夫、中公文庫)についてです。

非常に読みやすい。ただ正直カバーの「名著礼賛」ほどのインパクトはなかったです。

・美と宗教
本書の中でもっとも印象的かつ興味深いと思ったフレーズを紹介します。
「寺は、宗教にかかわるものであって、芸術作品ではない。われわれ(日本人)は、宗教的体験の場である寺を、美的標準からのみ評価するというあやまりをおかしている。」
民族によって美的感情と宗教的感情の関係は異なる。私にとって非常に面白い観点です。

・文明の生態史観―系譜論と機能論―
本書のエッセンスとなるところでしょう。ただ説明は割愛します。確かにい面白い観点であったのですが、あまりに大雑把で、ある意味大胆すぎます。(その大胆さ、ダイナミズムが魅力なのかもしれませんが)


昨日の続きです。前回はマホメット出現前、つまり無道時代においては人々の精神状況が危機にさらされていたことを書きました。具体的には人生の儚さを感じる一方で、それを思想的(形而上的に)に昇華する術を持たなかったため、刹那的快楽主義に陥っていたということです。

・マホメットの出現
本書ではマホメットの出現を以上のような砂漠的人間の精神的危機に対する警告者として位置づけています。つまり彼は警告をもって人々を救おうとしたと。そしてこのような彼の態度の背景にはある大きな感覚的体験がある。それは終末的感覚です。旧訳的な宗教(セム語的宗教)においてはそれは神学的理論でも、文学的寓意でもない。まさに圧倒的な、生々しい感覚なのです。

・天性の政治家としてのマホメット
これは文字通りマホメットの政治家としての才能についてです。例えば当初彼はアラブ人の伝統的な多神教に関して妥協的な態度をとっていた、そんなことです。しかしそういったことは、彼の偉大な宗教的な指導者としての生涯に全く傷をつけない。というのも旧訳的な預言者宗教においては、政治性がなければ全くの骨抜きになるからです。
その構図は旧訳的な宗教は、律法(イスラムではシャリーア)を特徴とし、そして律法は立法である限り、政治性と切り離せないという三段論法でしょうか?比較宗教をできるほどの知識が今はないのでこれで勘弁を。
「マホメット」(井筒俊彦、講談社学術文庫)についてです。

今まで私の中では、イスラム教は圧倒的なカリスマ性をもつ宗教指導者マホメットにより突如生みだされた、という印象が強かったです。しかし本書を読み、実際はそこに砂漠世界特有の思想的背景があったことを知りました。これは、どんな歴史的事件も一人の英雄によって作られたことはなかった、と考えると当然ではあります。ただ、特に一神教宗教の誕生においては、やはり一人の宗教的天才に依るところが多いというイメージがありました。

―無道時代(マホメット誕生以前)の精神的状況―

マホメット誕生以前のことです。この時期の砂漠世界の価値観は「部族とともに迷い、部族とともに正道をいく」でした。つまり部族は砂漠的人間の存在の根源、原理。部族を言い換えると「血」ですね。血縁による共同性。

もちろんその中で砂漠的人間独特の徳も生まれてくる。一種の砂漠の騎士道といえるもの。端的にいうと、その高貴な血統に恥じない行動をすることが内容に。

しかしマホメットが誕生した頃には、すでに砂漠のアラビア人の精神は危機的状況にあった。

その原因は彼ら砂漠の民の思考法にある。彼らの感覚は、特に聴覚と視覚は、砂漠の厳しい環境で生存していくために異常に発達していた。しかしその発達した感覚があだとなり、彼らは世界を論理的に(因果律に基づいて)統一的に把握すること、ないしは感覚世界を超越した形而上的世界や夢の世界を思考できなかった。

もしそんな彼らが自分たちの人生の無常さを感じるようになり、現世の儚さを感じるようになるとどうなるか?

彼らは形而下の世界でしか生きられない。袋小路に陥るのである。そして瞬間的な快楽主義に堕ちていくしかなくなる。

これがマホメットが遭遇した砂漠の民の精神の危機であった。




私はたまにクラブで、まさにこれこそ人間の原始の姿だ、と思う行為を目にします。

それは男女のペアが、バックや立位を彷彿とさせる形で、一心不乱に踊っている姿です。

卑猥な話ですが、とにかく腰の動きと体全体の揺れが激しいです。動画を撮ってyoutubeにアップしたら結構なPVを稼ぐかもしれません。

ここでこの行為を考察するに必要な条件を挙げてみます。

①音楽について
音楽は四つ打ちのテクノからハウス。但し歌もの、メロディアス、情緒性の強いものはダメです。硬質なプログレッシブハウスや、これまた硬めのテクノがよさそうです。メロディーは単純なものがいいです。(揺さぶるのは感情ではなく本能と身体)
トランスは高揚感が強いのですが、原始性に乏しく微妙です。サイケの方がよさそうですが、あまりBPMが速すぎるのはダメです。
あとレゲエはうってつけかも知れませんが、私自身詳しくないので言及しません。

②薬物使用について
エクスタシーなどの薬物を使用すると「行為」に及ぶ確率も大幅に上がり、行為もよりダイナミックになるでしょうが、ドラッグ無しでも十分見受けられます。そう考えると必要条件ではないはずです。

③意識的な愛情表現?無意識の原始回帰?
本人がこれを意識してやっているかどうかに関してです。もし意識していたら、単なるパフォーマンスの一つで価値が無くなります。「いつもベッドでやってることよ」ではイタい二人の描写に過ぎないです。
だからこそ要ヒアリングです。これが一番肝心ですよね。もちろん私としては彼らが無意識に無我夢中でやってくれているのを期待します。
近いうちに読もうと思っている本のリストです。
文明の生態史観 梅棹忠夫(読書中)
汚穢と禁忌 メアリ・ダグラス(読書中)
宗教人類学 佐々木宏幹
芸術の哲学 渡邊二郎
美について 今道友信
イスラーム文化 井筒俊彦
イスラム社会 アーネスト・ゲルナー
ドストエフスキーの詩学 ミハイル・バフチン

あとブルクハルトの「歴史の危機」「ルネサンス論」についても。。
「人はなぜ殺すか~狩猟仮説と動物観の文明史~」(マットカートミル著、新曜社)
以前読んだものですが、印象に残っていることをメモしておきます。

・狩猟仮説
元来人類の祖先は森林地帯で肉食に頼らず生活をしていた。しかし、ある時期に二足歩行を身につけ、森林から草原に生活の場を変えた。その結果人類の祖先は草原にいる動物を捕食するようになった。狩猟の起源である。狩猟の誕生は、人類をより効率的なハンターにするために、集団内での協調やチームプレイを強いた。こうして脳の働きを活発化させることで、人類は飛躍的に進歩した。だが同時にそれは人類をより効率的なハンター、つまり優れた捕食者にすることで、人間に冷酷さや攻撃性を与えるきっかけになった。そして、それらこそが結果的に今の人間の暴力性、残虐性の原型である、という説。

簡単にいうと今の人類の暴力性の起源は狩猟に認められる、という説。

・狩猟の意味の変遷

・雌鹿のイメージ
ギリシア・ローマ時代は臆病者の象徴。しかし次第に、それは性欲の対象の象徴or恋愛のメタファーに変化した。

・狩猟と強姦
「捉えられるのを避けることに必死になった生命に対する唯一の反応はそれを捕まえようとすること」(byオルテガ、多分)
→狩猟の内的構造は強姦と同じ?or狩猟は強姦の象徴?

・狩猟はカニバリズム?
人間と自然を分かつ境界線がなくなると・・
「コーカサスを知るための60章」(北川誠一他編著、明石書店)
コーカサスといってもあまり馴染みのない地域ですが、漠然と興味があったので読みました。

とはいえ無味乾燥で正直魅力があるとは言い難い内容でした。(実際20章でドロップアウト。)アマゾンの書評に「新聞記事の寄せ集め」とあったような気がしますが、的確な表現です。

ただ気付いたことは、コーカサスを理解するには、その地政学上「ロシア」からのアプローチ、「トルコ」からのアプローチ、「イラン」からのアプローチが重要だということです。カッコつきからもわかるように、ビザンツ、ソ連は「ロシア」からのアプローチに組み込む、などといった応用はもちろん必要ですが。

今度は魅力溢れるコーカサスの本に出会いたいものです。ご存知の方いらしたら情報下さい。




  
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