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昨日の続きです。

■ブルクハルトの同時代批判
・フランス革命を境にヨーロッパは伝統と断絶して不安定な時代に入った。→19世紀の「暫定性」

・大衆批判
→貴族主義的な立場からの大衆批判。「昔は愚か者にしろ、自分自身の力で愚かだった。」「われわれが直面しているのは、一般的な平準化である。」

・アメリカ流ビジネスへの批判

・国家の肥大化への危惧
大衆民主主義の登場と普及が国家の肥大化を招き、ついには暴力支配に行き着く「大衆専制主義」に反転すると主張した。
というのも大衆が願望する幸福とはきわめて物質的であり、その願望は決して満たされない。そこで大衆は国家の福祉のもとで改革を求め続け、それが結局国家の肥大化をもたらす。

■ブルクハルトの歴史観
人間の精神は変わらざる人間性に根ざした恒常的な側面をもつ一方で、他方で時代とともに変わる側面(歴史的側面)をもっている。

歴史的側面から考えると、精神はそれ自身が変わっていくと同時に、そのときどきの精神に見合った「生活形態」を樹立する。ここでいう生活形態とは今っぽくいうと「システム」(cf.マトリックス)。

しかしこのような「生活形態」も永久に持続するわけではない。人間の精神は一箇所にとどまることなく動き続けるので、かつてその時代の精神に見合う形で樹立された「生活形態」は新たな精神との間に矛盾や齟齬をきたすからだ。そして一旦「生活形態」の破綻が起これば世界は没落する。その間にも、精神はその新しい状態に見合った「生活形態」を構築する。ただしこの「生活形態」もいずれは同じ運命をたどって没落する。

このように精神が働き続け、一旦構築した「生活形態」を崩壊させているのが歴史の姿であり、これを歴史の「主要現象」とした。

ただしこのような歴史の「主要現象」に明確な到達点はない。というのも人間は自然界の闘争と連続する原始的な獣的側面を失っていない以上、この人間の精神を原動力にして動く歴史が、一つの目的に向かって動く合理的な過程を示すわけがないからだ。⇔進歩史観

「もしもすでに過去に一人の人間が他の人々のために命をささげたとするなら、それ以後それを超えたためしなどない。」したがって、人間の倫理性が「進歩」したという考え方は全くの誤謬。

また「われわれの現在の道徳全体が、これらの安全性に方向付けられている。」といい、同時代の人間が「安全性」を観点に、過去の歴史の「幸」「不幸」を判断するのを批判した。この批判はもちろん今の私たちにも十分通用する。結局人々が歴史に対して発する「幸」「不幸」は、各人の気まぐれなエゴイズムに過ぎないとした。

今日はこれまで。。。


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「歴史をいかに学ぶか ブルクハルトを現代に読む」(野田宣雄著 PHP新書)のまとめです。

・進歩史観の凋落
20世紀支配的であったマルクス主義流の進歩史観と(西欧風)自由主義的な進歩史観が、ここにきてともに衰退している。
→ソ連の崩壊によるマルクス主義の行き詰まり。
 冷戦以後の数々の紛争、弊害による自由主義的な進歩史観の限界。(フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」にみられる短絡さ)
⇒進歩史観を基にした人生設計の限界
ex.日本における若者の無気力さ

・ギリシア・ローマにおける循環史観
ヘロドトスやトゥキディディスの著作にみられるのは、歴史を「変わらざる人間本性の繰り返し」とみなす循環史観。

・アウグスティヌスの歴史観―進歩史観の原型1―
アウグスティヌスはギリシア的な循環史観を退けて、「始まりと終わりをもち、一つの目標をめざす進行過程としての歴史観」を構築した。彼にとって歴史の始まりとは世界の創造と人間の堕罪であり、歴史の終わり(目的)は最後の審判と復活であった。

・フロリスのヨアキムの歴史観―進歩史観の原型2―
歴史は三つの秩序段階をえて究極の目的にすすんでいく。

・ボシュエの歴史観―進歩史観の原型3―
彼の歴史観のきもは摂理史観をとり、諸帝国の興亡にはそれぞれ特殊な原因があるとしながらも、そこには神の意志が示されているというものである。統治者の一段高いところで神の意志が働き、統治者達を導いていると考えた。cf.ヘーゲルの「理性の狡智」

・ヘーゲルの歴史観
「理性」ないしは「世界精神」が歴史を高みから一つの目的に向けて操っている。そしてその目的とは人間の完全な自由の実現となる。→「理性の狡智」

・マルクスの歴史観
すべての歴史を「階級闘争の歴史」ととらえて資本主義社会におけるブルジョアとプロレタリアートの対立はプロレタリア革命に行き着く。そしてこれにより「人間社会の前史」が完結し、プロレタリア独裁のもとに共産主義という最高の共同体が到来するという歴史観。
→ここにはマルクス主義が「科学」を標榜しながらも、その内部においてはユダヤ・キリスト教的な終末論的な歴史解釈を引き継いでいる。

・ヴィーコの循環史観(cf.「新しい学」)
ヴィーコは諸民族それぞれが誕生から没落までの過程をほとんど法則的に繰り返し、その全体が歴史に他ならないと考えた。彼のきもは、民主的な文明社会に到達した民族が再び原始状態に引き戻されるとしたこと。ただし各民族の誕生から滅亡に至る歴史を全く同じサイクルの繰り返しとは考えない。宗教的な要素を考慮し、各文明の独自性を重視する。
→螺旋的な循環史観

・シュペングラーの循環史観(cf.「西洋の没落」)
西欧中心の直線的歴史観を批判。巨大の文化の興亡のドラマとして歴史を描く。彼は文化を限られた寿命をもった生物体であり、最後は必ず死滅するとした。そしていずれの文化も誕生から死滅にかけての過程で、必ず同じ段階を踏み、各時代で相似た人物や事件を生み出すとした。例えばギリシア・ローマ文化では秋から冬の段階にあたり、アレクサンダー大王が登場し、一方西欧文化では同段階にナポレオンが現れた。

このような異なる文化間の人物や事件における「相同」関係の一方で、各文化はその核心に固有の「魂」あるいは「世界感情」有しているとした。そしてそれらの違いこそが各文化の違いを生み出す根源的要素であるとした。たとえばギリシア・ローマ文化では、この世界は肉眼で把握しうる限定的な大きさをもったものを単位として成り立っているという「アポロン的魂」が存在する。一方西欧文化では、あくまでも無限のものを志向する「ファウスト的魂」が存在する。これらの違いは各文化の神の観念や、国家のあり方、数学の性格にまで「形態」として現れてくるとした。

話が少々それましたが、彼のきもは全ての文化が死滅を免れず、西欧文化も例外ではないとしたことです。

今日はここまで。。。



「シャーマニズムの精神人類学 癒しと超越のテクノロジー」(ロジャー・ウォルシュ著、春秋社)のまとめです。

正直面白くないです。同じような内容の繰り返しが多く退屈しました。だからまとめも途中までです。

・シャーマニズムは精神病?
伝統的な見解ではシャーマニズムは分裂病やヒステリー、てんかんの一種と考えられていたそうです。トランスパーソナル心理学者の筆者はそれらに対して「断定はできない。」として反論します。筆者は医学博士でもありますのでこの辺りの話はかなり具体的です。(だから素人は退屈する。)

・シャーマニズムの定義とその特徴
①シャーマンは自発的に変性意識状態に入ることができる。
②そうした状態の下で異界への「旅」を体験する。
③そうした旅を、知識や力を手に入れ、共同体の人々を助けるための手段として利用する。
④霊との交流を行う。
⑤日常的には隠されたリアリティと接触する。

またシャーマニズムは価値観や教義よりも、その実践法や体験の方に焦点をあてたもの→宗教ではなく宗教的伝統というべきもの。しかもシャーマンの個人的体験が非常に強調される。

・起源 ―人間の本質から考えて―(実はここら辺が本書の肝です。)
シャーマニズムは世界最古の伝統の一つだが、正確な起源は分からない。
また世界中に広範に分布しているにもかかわらず、シャーマンには著しい共通性がある。→その共通性はどこから来たのか?

・それぞれの場所で自然に生まれた。→そこには人類が本来的に共有している傾向性ないしは周期的な社会ニーズがあった。

・そうではなくて共通性は同じ祖先をもつ人々の移住や分散によって生じた。→言語や社会的慣習の変化を考慮すると移住だけで説明は難しい。

⇒一つ目の考察のほうが理にかなっている。
社会的な力と人間の本来的能力が反復的に結びついたことでシャーマニズムは維持されてきた。

具体的に説明すると・・
・人間には本来的に超越したものや霊的なものを求める欲求が備わっている。
→心理学的にみてもそれらは人間に「癒し」を与える。

・一方長い歴史の中で人間は自然発生的に覚醒夢、体外離脱体験、臨死体験(死と再生の体験)などと遭遇してきた。さらに向精神性植物(cf.LSD)や原始的なドラム音などにより変性意識状態に。
→人間は本来的能力としてトランス状態に入り、超越的なものを獲得できる。

・とはいえ全ての人間がうまく「覚醒」できるわけではない。同時に古代の集団においては「覚醒」した聖者たる人間が集団全体のために必要。(異界へ「旅」をして悪霊と話をつけたり、神の怒りを静めるため。)
→こういったことがシャーマンという特別な存在に対する社会的需要に。

上記の三つがむすびつきシャーマンを各地で自然発生させた。そしてそれらは人間に共通する根源的な傾向性と社会需要に基づいているので、各地のシャーマンは共通性をもちながら維持されてきた。

※最後に・・
「超越的なものって何?」という質問に対して

「天国はあなたの内にある。」とだけ言っておきます。
昔小学校や幼稚園で言われませんでした?
「X君はYさんのこと好きだからいじめちゃうのね。本当は好きなんだからやめなさい。」って。
これは文字通り人間には好きな異性をいじめちゃう傾向あり、ってことを言っています。(私は男なのでどうしても男性視点ですが。)

どうでしょうか?私は当たっていると思います。

理由は相手への支配の契機になるからでしょうか。

或いは相互の関係性の問題でしょうか。いわば相手と自分を加虐ー被虐という「不徳」の関係に置くことで、その関係性を楽しんでいるみたいな。(ある意味「不徳」は親密さの裏返し。)

それとも全ての人間が、各自強弱はあるが、根源的な性的サディズムをもっているからなのでしょうか。(その場合は「人間は神と悪魔の相の子なのです。」みたいなことしか言えない。)

あと単に相手に構って欲しい、自分の存在をより強く意識して欲しいからでしょうか。(一番納得できる?)

ところで二つ目のとこに書いた「不徳と親密さ」ってなかなか興味深いような気がします。(手前ミソですが。)
世の中には愛情飢餓の人がたくさんいます。原因は色々でしょう。幼年期の親の愛情不足とか、強烈な自己愛の裏返しとか。

そんな人は概して愛情に対して貪欲です。もちろん日常生活ではそんな素振りは見せない人も多くいます。ただ一度この人に愛されたいと思ったらその求愛は強烈です。まさに相手の愛を貪るのです。

イメージとしては「いつも私のことを想っていて欲しい。常に私があなたの世界の中心であって欲しい。」でしょうか。 彼らにとって例外はありません。
「今夜は忙しいからあなたに構っている暇はないの。分かってちょうだい。」と言われようものなら、彼の内で彼が崇拝する女神像は音を立てて崩れていきます。代わりに生まれるのはスラム街の狡猾な娼婦像でしょうか。だけど彼は彼女に失望や憎悪の言葉を投げかけた後またすぐに戻ってくるでしょう。彼は文字通り彼女にのめり込んでいるのですから。

しかし彼女がこうした「健全な」態度をとるといつもこれなのです。 最初の内は「彼が私を愛してくれている証拠だわ。」と思っていても、やはりいずれは彼の頑固で偏狭な愛に疲れてきます。そしてそのことを彼に口にしても…

ここからはもはやホラーの域だったりします。どこまでいくのか?
お互いが疲弊して生活にかなりの変調をきたすところまで繰り返されるでしょう。もちろん彼女が聡明で要領のよい人ならばそれに越したことはありませんが…
例えばあなたの友達(知人、周囲の誰か)がドラッグをやっているとします。あなたはどうしますか?ドラッグの種類は指定しませんが、エクスタシー~アシッドのイメージで。
あと最低条件として彼(彼女)は特にドラッグをやめたいとは思っていない、とします。

もしかすると「そんなの状況次第。」という人がいるかもしれませんから、状況設定のために以下の項目を用意しました。

・彼(彼女)とあなたとの心理的・物理的距離
彼に親しみを感じているかどうか、彼とよく時間を共にしているかなどです。

・彼(彼女)はあなたにとって大切かどうか
最初の項目と関連しますが、たとえ心理的距離が近くてもその人のことを大切には思わないこともありうるので別にしました。

・彼(彼女)がドラッグをしている理由
ただクラブでバカ騒ぎしたいからやっているのか、それとも現実逃避や変身願望(自分を変えたい、本当の自分に出会いたい)のためかなど

・ドラッグの彼(彼女)に対する影響
ドラッグのせいで見るからに健康(精神)を害しているなど

・外的状況
最近警察のドラッグに対する取締りが厳しくなっているなど

・あなた自身のドラッグに対する態度
ドラッグって別に悪くないよね?なのかなど

上記以外も考慮したいという項目があるかもしれません。

ただここで以上の項目の答えとは全く無関係に、彼(彼女)のドラッグの使用をやめさせるような実際的行動をとったあなたは、真理とともに生きる聖人か、神経症気味の厳格主義者か、他人の中にズケズケと入る俗物かのどれかかも知れません。

また逆に以上の項目とは全く無関係に「(それでも)他人は他人、自分は自分」という人もいます。だけどそれは理解可能でしょう。というのも以上の各項目の答えがいかなるものであろうと、彼(彼女)は特にドラッグをやめたいとは思っていないのですから。

ここで察しのいい人はお気づきでしょう。私が相対主義から抜けることのできない臆病者であるということが。私にとっては途中であげた各項目などは大した問題ではないのです。結局私は本人の意思を最大限に「尊重」します。それは倫理的判断とは無縁のものです。他人の中に入り込むのを恐れているのか、自分と他人の境界線を明確にしておきたい裏返しなのか・・ 
ただ一ついえることは、私のそういった態度には「逃げ」の感覚が常に潜んでいることです。


今日は少し趣向を変えて「ロリータ」(ナボコフ作、若島正訳、新潮文庫)についてです。
何かと評価が高い新訳版ですが確かに読みやすかったです。(旧訳は読んでいませんので、旧訳との比較においてではありません。)またロリータにいわゆる「ギャル語」を話させているのも、ロリータの「低俗で早熟」だけど「傷つきやすく」それでいて案外「けろっとして元気な」キャラをうまく表現していてなかなか面白かったです。

私はこれを「少女への倒錯を描いた変態中年の話」であるとは感じませんでした。この小説以上に「変態でイカレた」現実を知っているからでしょうか、むしろ主人公に感じたのは、「不健全な変態さ」ではなく「強烈な自己愛」でした。彼の言葉を通して語られるアメリカの景観や、そこでの彼の感傷癖は自己愛の表れだと思います。もちろんロリータに対する愛情の注ぎ方もまた然りです。

ただそういった彼の自己愛によって紡ぎだされた世界(現実はきっと違うはず)にいると、不思議と読み手までもが感傷的になったのも事実です。確かに彼の欲望は倒錯していてその自己愛は健全ではないでしょう。それでも私にとって彼が描いた世界(本作品は主人公の告白録)は理解可能で、内面的な感じ方においては共感可能なレベルでした。(恐ろしくナイーブかもしれません。)

ちなみに本書の中で私がもっとも心を揺さぶられたのは、主人公が妊娠したドロレスと再開した場面です。原因は主人公ではなく妊娠したドロレスです。ただどうしてなのかということは説明しません。野暮な気がしますので。
前回の続きです。
・インセストの神話理論―通説―
神話分析におけるインセストは秩序を混乱させる行為として厳しく弾劾される一方で、秩序それ自体やそれに不可欠な要素の原動力となっている。→コスモスを成立させるための根源的力としてのインセスト、ここではインセスト(自然)~インセストタブー(文化)への一方的な移行が想定されている。

・インセストの神話理論―通説への批判から―
インセストを禁止しながらもそれ自体別の水準ではインセストでしかないのが婚姻で、禁止したものを再召喚するのが、インセスト忌避における人間と霊長類の違いである。
→自然~文化への一方的な移行というのは安直!

・インセストにおける時間概念
ex1.オイディプス神話
実の父を殺し、実の母と交わったオイディプスは一方的な移行の時間軸に身をおいていない
→母を妻にすることで彼は父と同じ立場に(三本足の人間、ちなみに父ライオスは殺害された時杖をついていた)自分の子たちと母を同じくしていることで自分の子供達の立場に(四本足の人間)、そして自身は二本足の人間であるといえる
→隣接世代の同一化

ex2.ニューギニアのイクワイェ
男は自分の息子を「チチ」と呼ぶ。男の息子は男の父と同じだと考えるからである。一方男は自分の父も「チチ」と呼ぶ。つまり親子三代が互いを「チチ」と呼び合うことに。
→互隔世代の同一化(世代という時間の流れは絶えず反転・循環しているといえる)

イクワイェは隣接世代の同一化を忌避するからオイディプス神話と同一ではない。しかしインセストタブー以降に同一化現象が見られることは、反転・循環するインセスト時間が、隣接世代の同一化の禁止のもとで世代という時間の流れに内包されているといえる。


・ウェスターマークの仮説
幼少の頃からきわめて親密に育った人々の間に性交に対する生得的な嫌悪が存在する
台湾のシンプアの研究
・マードックの調査
250の集団で近親性交の調査→禁じられている社会がほとんどで許されている社会などない、罰則は死罪or追放が多い
・メイト・アウト(交尾回避)
思春期に達した雄や雌が自分の生まれた集団から離脱すること
交尾回避がメイト・アウトを引き起こすという説
・(インセスト)回避から規範
雄(父)が雌(娘)と性的な親和性とは異質な親和性を結ぶことで「父性」がうまれた、また「自分の娘で他人の妻」といった複合的な男女関係が可能になった→他集団との共存に
・母方交差イトコ婚、父方平行イトコ婚
・身内とよそ者、分節
タブー以前に予め近親者や身内の範囲、境界が固定されているのではない、むしろタブーが近親者とよそ者を分節する
・いかなる婚姻もインセスト byレヴィ
婚姻は「教える―学ぶ」関係にある「他者」とではなく共同体の「同一者」や「身内」となされる
・「真の内婚」byレヴィ、トーテム分類法
婚姻の可能性を人間共同体の境界外に求めることの拒否、ここで「人間共同体」とは?→トーテム分類法では人間と動物が祖先、子孫、配偶者の関係になり「同一者」となる、から
・ヴェズの婚姻理論
ヴェズの人々は自分を基点として父系、母系問わずに双方に系譜関係を広げてえられる親戚の数を自慢する
「人々はみんな同じ一族であるが、結婚が彼らを分かつ」→族外婚が成立するように「差異」を作るのが結婚になる

。。。今日は以上。

前回は生物人類学者の多くが近交弱勢を主張していること、それに対していくつかの反論がなされていることを紹介しました。今回はそれらの内、三つ目の反論についてみていこうと思います。三つ目の反論とはすなわち、近親性交をフロイト的な精神医学の観点からのものです。

フロイト的に近親性交をみるのならそのイメージはオイディプス的様相を帯びてきます。彼が考えた近親性交の起源はダーウィンが唱えた「原始ホルド」にあります。
この話では太古には強権的な父による女の独占があったと仮定します。つまり父が母、姉妹を囲っていて兄弟達(息子達)はそれを脇で見ているしかなかった。あるとき兄弟達は父を殺し、父の死肉を喰った。しかし悔恨にかられた兄弟達はある取り決めをした。それが「今後は誰か一人が父の座を独占しないようにし、母や姉妹の占有を許さない。」というものでした。これが結局近親性交の掟になり、ひいては禁忌になったということです。

この話のエッセンスは「男たちの女たちを占有することに対する断念」です。兄弟達による姉妹占有の断念のことです。そしてこれが異なる親族間での「女の交換」を形成し、外婚制につながったということです。
理由は難しくないはずです。近親性交の禁忌がある社会では男が女を得るためには、近親の女性と交われないのだから、他の男から女を譲渡されることを待つしかないのです。これは「配偶者の女性の授受」であり「交換」が親族構造を形成するという意味なのです。

ここで私たちはある1人の思想家を思い起こします。それはレヴィ・ストロースです。こういった女性の交換から「関係の生成」を説いたのが彼だからです。
しかし注意しなければいけません。今までの説明してきた「兄弟達の断念」とそれによる「女の交換」は、フロイトの原始ホルド(オイディプス心理)から導いたことに。

確かに一見すると両者は「女の交換」という同じ結論に辿りついたかのようです。しかし実際そのかれらの「交換」は全く性質の違うもの、むしろ対照的なのです。

つまりざっくりいうと、フロイトのいう「女の交換」は父との関係が先行条件になっている一方で、レヴィ・ストロースのものは女性を介した複数の男性関係が必要なのです。
そしてそれはお互いの「交換」を、前者では「(女を)独占してはいけない」という禁止命令から導いているのに対して、後者では「交換せよ」という肯定的命令から導いているともいえるのです。

話が拡散してきましたし、何より私のレヴィ・ストロースに関する理解が極めて浅薄なのでこれぐらいにします。
まあ今回は、近親弱勢への反論→フロイト的なアプローチ→レヴィ・ストロースとの交差点→両者の対照性みたいな流れでした。

最後に念のために。
―以上の内容は「近親性交とそのタブー」~文化人類学と自然人類学のあらたな地平~(川田順造編、藤原書店)の渡辺公三氏による「幻想と現実のはざまのインセスト・タブー」の読書メモです。口調がまるで自説のようですが決してそうではないです。あくまでメモです。―


近親性交とそのタブーを読みました。文化人類学と自然人類学(霊長類学)の両サイドから近親性交を考察しています。シンポジウムをまとめたものです。

早速ですが生物人類学者の中では見解は大方一致しているみたいです。
「近親性交により生まれた個体は遺伝的に劣っている。そのため結果として近親性交を避ける個体の方がより多くの子孫を残していった。」と。これに関する反論もあります。

・近親性交は一般的に婚姻の時期を早める。つまりその分より多くの子孫を残すことができるのじゃないか?
・ローマ属州下のエジプトでは6分の1が全血の兄弟婚とのデータもあり。
・今でも近親性交は表層下では起こっている。
などです。一番目は生物的な反論です。二番目はデータの扱いが難しいです。三番目が漠然としていますが、その出所はフロイト的なオイディプス心理などでしょうか。(それだけじゃないでしょうが)

・・・今日はこのぐらいにします。
  
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