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「文明の生態史観」(梅棹忠夫、中公文庫)についてです。

非常に読みやすい。ただ正直カバーの「名著礼賛」ほどのインパクトはなかったです。

・美と宗教
本書の中でもっとも印象的かつ興味深いと思ったフレーズを紹介します。
「寺は、宗教にかかわるものであって、芸術作品ではない。われわれ(日本人)は、宗教的体験の場である寺を、美的標準からのみ評価するというあやまりをおかしている。」
民族によって美的感情と宗教的感情の関係は異なる。私にとって非常に面白い観点です。

・文明の生態史観―系譜論と機能論―
本書のエッセンスとなるところでしょう。ただ説明は割愛します。確かにい面白い観点であったのですが、あまりに大雑把で、ある意味大胆すぎます。(その大胆さ、ダイナミズムが魅力なのかもしれませんが)


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昨日の続きです。前回はマホメット出現前、つまり無道時代においては人々の精神状況が危機にさらされていたことを書きました。具体的には人生の儚さを感じる一方で、それを思想的(形而上的に)に昇華する術を持たなかったため、刹那的快楽主義に陥っていたということです。

・マホメットの出現
本書ではマホメットの出現を以上のような砂漠的人間の精神的危機に対する警告者として位置づけています。つまり彼は警告をもって人々を救おうとしたと。そしてこのような彼の態度の背景にはある大きな感覚的体験がある。それは終末的感覚です。旧訳的な宗教(セム語的宗教)においてはそれは神学的理論でも、文学的寓意でもない。まさに圧倒的な、生々しい感覚なのです。

・天性の政治家としてのマホメット
これは文字通りマホメットの政治家としての才能についてです。例えば当初彼はアラブ人の伝統的な多神教に関して妥協的な態度をとっていた、そんなことです。しかしそういったことは、彼の偉大な宗教的な指導者としての生涯に全く傷をつけない。というのも旧訳的な預言者宗教においては、政治性がなければ全くの骨抜きになるからです。
その構図は旧訳的な宗教は、律法(イスラムではシャリーア)を特徴とし、そして律法は立法である限り、政治性と切り離せないという三段論法でしょうか?比較宗教をできるほどの知識が今はないのでこれで勘弁を。
「マホメット」(井筒俊彦、講談社学術文庫)についてです。

今まで私の中では、イスラム教は圧倒的なカリスマ性をもつ宗教指導者マホメットにより突如生みだされた、という印象が強かったです。しかし本書を読み、実際はそこに砂漠世界特有の思想的背景があったことを知りました。これは、どんな歴史的事件も一人の英雄によって作られたことはなかった、と考えると当然ではあります。ただ、特に一神教宗教の誕生においては、やはり一人の宗教的天才に依るところが多いというイメージがありました。

―無道時代(マホメット誕生以前)の精神的状況―

マホメット誕生以前のことです。この時期の砂漠世界の価値観は「部族とともに迷い、部族とともに正道をいく」でした。つまり部族は砂漠的人間の存在の根源、原理。部族を言い換えると「血」ですね。血縁による共同性。

もちろんその中で砂漠的人間独特の徳も生まれてくる。一種の砂漠の騎士道といえるもの。端的にいうと、その高貴な血統に恥じない行動をすることが内容に。

しかしマホメットが誕生した頃には、すでに砂漠のアラビア人の精神は危機的状況にあった。

その原因は彼ら砂漠の民の思考法にある。彼らの感覚は、特に聴覚と視覚は、砂漠の厳しい環境で生存していくために異常に発達していた。しかしその発達した感覚があだとなり、彼らは世界を論理的に(因果律に基づいて)統一的に把握すること、ないしは感覚世界を超越した形而上的世界や夢の世界を思考できなかった。

もしそんな彼らが自分たちの人生の無常さを感じるようになり、現世の儚さを感じるようになるとどうなるか?

彼らは形而下の世界でしか生きられない。袋小路に陥るのである。そして瞬間的な快楽主義に堕ちていくしかなくなる。

これがマホメットが遭遇した砂漠の民の精神の危機であった。




昨日の続きです。

■ブルクハルトの同時代批判
・フランス革命を境にヨーロッパは伝統と断絶して不安定な時代に入った。→19世紀の「暫定性」

・大衆批判
→貴族主義的な立場からの大衆批判。「昔は愚か者にしろ、自分自身の力で愚かだった。」「われわれが直面しているのは、一般的な平準化である。」

・アメリカ流ビジネスへの批判

・国家の肥大化への危惧
大衆民主主義の登場と普及が国家の肥大化を招き、ついには暴力支配に行き着く「大衆専制主義」に反転すると主張した。
というのも大衆が願望する幸福とはきわめて物質的であり、その願望は決して満たされない。そこで大衆は国家の福祉のもとで改革を求め続け、それが結局国家の肥大化をもたらす。

■ブルクハルトの歴史観
人間の精神は変わらざる人間性に根ざした恒常的な側面をもつ一方で、他方で時代とともに変わる側面(歴史的側面)をもっている。

歴史的側面から考えると、精神はそれ自身が変わっていくと同時に、そのときどきの精神に見合った「生活形態」を樹立する。ここでいう生活形態とは今っぽくいうと「システム」(cf.マトリックス)。

しかしこのような「生活形態」も永久に持続するわけではない。人間の精神は一箇所にとどまることなく動き続けるので、かつてその時代の精神に見合う形で樹立された「生活形態」は新たな精神との間に矛盾や齟齬をきたすからだ。そして一旦「生活形態」の破綻が起これば世界は没落する。その間にも、精神はその新しい状態に見合った「生活形態」を構築する。ただしこの「生活形態」もいずれは同じ運命をたどって没落する。

このように精神が働き続け、一旦構築した「生活形態」を崩壊させているのが歴史の姿であり、これを歴史の「主要現象」とした。

ただしこのような歴史の「主要現象」に明確な到達点はない。というのも人間は自然界の闘争と連続する原始的な獣的側面を失っていない以上、この人間の精神を原動力にして動く歴史が、一つの目的に向かって動く合理的な過程を示すわけがないからだ。⇔進歩史観

「もしもすでに過去に一人の人間が他の人々のために命をささげたとするなら、それ以後それを超えたためしなどない。」したがって、人間の倫理性が「進歩」したという考え方は全くの誤謬。

また「われわれの現在の道徳全体が、これらの安全性に方向付けられている。」といい、同時代の人間が「安全性」を観点に、過去の歴史の「幸」「不幸」を判断するのを批判した。この批判はもちろん今の私たちにも十分通用する。結局人々が歴史に対して発する「幸」「不幸」は、各人の気まぐれなエゴイズムに過ぎないとした。

今日はこれまで。。。


「歴史をいかに学ぶか ブルクハルトを現代に読む」(野田宣雄著 PHP新書)のまとめです。

・進歩史観の凋落
20世紀支配的であったマルクス主義流の進歩史観と(西欧風)自由主義的な進歩史観が、ここにきてともに衰退している。
→ソ連の崩壊によるマルクス主義の行き詰まり。
 冷戦以後の数々の紛争、弊害による自由主義的な進歩史観の限界。(フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」にみられる短絡さ)
⇒進歩史観を基にした人生設計の限界
ex.日本における若者の無気力さ

・ギリシア・ローマにおける循環史観
ヘロドトスやトゥキディディスの著作にみられるのは、歴史を「変わらざる人間本性の繰り返し」とみなす循環史観。

・アウグスティヌスの歴史観―進歩史観の原型1―
アウグスティヌスはギリシア的な循環史観を退けて、「始まりと終わりをもち、一つの目標をめざす進行過程としての歴史観」を構築した。彼にとって歴史の始まりとは世界の創造と人間の堕罪であり、歴史の終わり(目的)は最後の審判と復活であった。

・フロリスのヨアキムの歴史観―進歩史観の原型2―
歴史は三つの秩序段階をえて究極の目的にすすんでいく。

・ボシュエの歴史観―進歩史観の原型3―
彼の歴史観のきもは摂理史観をとり、諸帝国の興亡にはそれぞれ特殊な原因があるとしながらも、そこには神の意志が示されているというものである。統治者の一段高いところで神の意志が働き、統治者達を導いていると考えた。cf.ヘーゲルの「理性の狡智」

・ヘーゲルの歴史観
「理性」ないしは「世界精神」が歴史を高みから一つの目的に向けて操っている。そしてその目的とは人間の完全な自由の実現となる。→「理性の狡智」

・マルクスの歴史観
すべての歴史を「階級闘争の歴史」ととらえて資本主義社会におけるブルジョアとプロレタリアートの対立はプロレタリア革命に行き着く。そしてこれにより「人間社会の前史」が完結し、プロレタリア独裁のもとに共産主義という最高の共同体が到来するという歴史観。
→ここにはマルクス主義が「科学」を標榜しながらも、その内部においてはユダヤ・キリスト教的な終末論的な歴史解釈を引き継いでいる。

・ヴィーコの循環史観(cf.「新しい学」)
ヴィーコは諸民族それぞれが誕生から没落までの過程をほとんど法則的に繰り返し、その全体が歴史に他ならないと考えた。彼のきもは、民主的な文明社会に到達した民族が再び原始状態に引き戻されるとしたこと。ただし各民族の誕生から滅亡に至る歴史を全く同じサイクルの繰り返しとは考えない。宗教的な要素を考慮し、各文明の独自性を重視する。
→螺旋的な循環史観

・シュペングラーの循環史観(cf.「西洋の没落」)
西欧中心の直線的歴史観を批判。巨大の文化の興亡のドラマとして歴史を描く。彼は文化を限られた寿命をもった生物体であり、最後は必ず死滅するとした。そしていずれの文化も誕生から死滅にかけての過程で、必ず同じ段階を踏み、各時代で相似た人物や事件を生み出すとした。例えばギリシア・ローマ文化では秋から冬の段階にあたり、アレクサンダー大王が登場し、一方西欧文化では同段階にナポレオンが現れた。

このような異なる文化間の人物や事件における「相同」関係の一方で、各文化はその核心に固有の「魂」あるいは「世界感情」有しているとした。そしてそれらの違いこそが各文化の違いを生み出す根源的要素であるとした。たとえばギリシア・ローマ文化では、この世界は肉眼で把握しうる限定的な大きさをもったものを単位として成り立っているという「アポロン的魂」が存在する。一方西欧文化では、あくまでも無限のものを志向する「ファウスト的魂」が存在する。これらの違いは各文化の神の観念や、国家のあり方、数学の性格にまで「形態」として現れてくるとした。

話が少々それましたが、彼のきもは全ての文化が死滅を免れず、西欧文化も例外ではないとしたことです。

今日はここまで。。。



  
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