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2ちゃんはごみだめって聞いたことあるけど、いつの時代も社会の「ごみ」というか「汚れた部分」の総量はそんなに変わらないだろ。

「ごみ」の量が増えたとでもいいたいのかよ。

あと2ちゃんの匿名性をことさらにあげつらうけど、人間群れれば必ず「匿名性」がどこかしら生じるだろ。

確かに2ちゃん(ネット)が匿名性が強いの事実。だけどその強さよりも、形態(性質か?)の新しさについて論じた方が未来的。

昔から「人間群れると何するか分からない。」ものだろ。

10人集まる→いじめ
100人集まる→村八分
1000人集まる→戦争
10000人集まる→虐殺
100000人集まる→環境汚染
6000000000人集まる→地球が危ないwww

そんなに匿名性が嫌なら、お前が消えろよww
少しは貢献できるぜwww
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「ウェブ人間論」(梅田望夫、平野啓一郎共著、新潮新書)の第一章を読んで。

web2.0以後の世界に楽観的な梅田さんと、それに対して懐疑的な平野さんの対談。

一番印象に残ったのは「ネットは国の壁は越えられるが言語の壁はなかなか越えられない」の箇所。

そう考えると英語圏やフランス語圏というのが、ネット上の言語の大陸になるかも知れない。同時に日本語は日本人しか使わないから、その意味で孤立する可能性もある。ハンチントンの「文明の衝突」で言われているようなことが現実化してしまうのだ。

ちなみにこの状況をよりラディカルに捉えるとこんな未来が待っている??
分裂勘違い君劇場 ~2026年、言葉の壁で日本沈没~ 

だがあえて言おう。「英語の習熟度の差が国の競争力の決定的差ではないこと教えてやる」と。

ただここにはさらに興味深い現象があるかもしれない。それはポストコロニアリズムからの観点である。

つまりフランスの旧植民地の国々の人々が、ネット上のフランス語を介して、自分達独自の言い回しなどを失っていく可能性があるということだ。これは逆に言えば、フランス本国の「正統な」フランス語による再征服とも解することができる。

こういったことは本来web2.0がもつ「脱中心化」という性質と全く逆の現象であり、結局web2.0も世界をフラット化するようにみえても、本質的にはクローズドな文化的階層に基づく秩序をもたらしてしまうのか、とも考えてしまう。

ただgoogleが人力以上の自動翻訳を作ったら杞憂に終わるのだが・・(実際それはgoogle先生でも困難に思える。)

あとやっぱりユーザー数の増加による「衆愚化」についても言及されてた。だけどこれは群集心理から考えたら解決不可能だと思う。だからユーザーの属性を限定したSNSやソーシャルブックマークとかの需要が今後も伸びていくのか。

そう考えていくと世界が標準化されていくようにみえるのも、実は表層的なイメージに過ぎないのかとも思ったりする。

オープンであればあるほど、クオリティの高いものが生まれるというweb2.0の黄金律について、ついつい懐疑的になってしまう今日この頃です。





FPN-モバゲータウンは次世代のミクシィになるのか?
まなざしの快楽~「合理化のジレンマ」の章 - モバゲータウンはなぜ薄気味悪いのか

今巷で話題のweb2.0的錬金術「モバゲータウン」についての考察です。その狡猾なシステムや経済的効用については言及せずに、アバターと身体感覚の関係から考察していきます。

まずアバターに反映されるのは、(ことさら容姿に)多感なティーンの理想の身体像でしょう。彼らの変身願望をそれぞれのアバターは一身に背負ってくれる。

そこで健全な若者は気付いているはず。「戯れは戯れ。現実は現実。」と。

しかし自意識と自己愛が過剰な若者はどうでしょうか。往々にして彼らは自分の身体に汚れの感覚をもっている。自意識と自己愛はいつもその人に理想を志向させるからです。

一方アバターには汚れはない。自分が本当に愛することができる身体がそこにはある。

しかもその身体がある場所は、決して従来のゲームなどと違い、他者との関係性が存在する、逆説的にオープンな場所です。アバターによる身体感覚はその関係性により、ますます確固たる、信頼できるものになる。

モバゲーが直メールやオフ会を厳禁していることがこれに拍車をかけます。現実から隔離されたクローズドな世界としての独立性を維持できるからです。

これら一連の状況が何をもたらすか?それは現実世界における身体感覚の曖昧化です。

モバゲータウンで一日中「暮らし」ているわけではないでしょう。だから現実での身体感覚が喪失とは考えにくいです。むしろぼやける感じです。

この曖昧化は単にその人の身体感覚だけに及ぶものではないでしょう。身体は常に世界に「隣接」、いやむしろそれにぴったりと「張りついて」います。そのため身体の曖昧化は、次第にこっちの世界をぼやけさせ、ついでに「こちら」と「あちら」の境界線をも曖昧にするでしょう。

ただこれはよく言われていることですね。現実と非現実の混同という風に。

しかし真にモバゲーが恐ろしいのは、従来と違い、それらが混同されても、なお非現実、「あちら」の世界は自己完結的な関係性を抱え込んでいるために、世界の曖昧化を拒むことができるということです。言い換えればクローズドで独立したモバゲーは、いまだに各人の強固な身体感覚で維持されているのです。

つまり現実での生活がぼやけてきても、対照的にモバゲーではその人の意識は―その身体感覚とともに―明瞭なのです。DeNAという会社が作ったマテリアルによるハンドメイドの身体とともに。
私はついつい人間の一部の行動を「原始的」だと形容し、人間の動物性を必要以上に主張しがちなのですが、ここには大きな誤謬があると気付きました。

特に人間の行動のうち一般的な道徳律に反すると考えられる行為について語る場合は。
残虐性、エロティシズム、侵犯などなど。

というのも動物には死の意識、感覚があるか疑わしいからです。本能で死を回避することがあっても人間のように死に聖性を感じているとは考えにくい。

また逆に動物は人間のように死体に嫌悪感や穢れを感じることもないでしょう。

これらの死(死体)に対する意識の差が何に影響するか、それはやはりエロティシズムです。エロティシズムは残虐性や侵犯をも内包し、かつ死の聖性をもっとも反映すると考えられるからです。

そして聖性というからには、エロティシズムは、人間の死の感覚を基軸に宗教と本質的に同じ様相を帯びてきます。

ホント面白いですね。人間の非理性的なものの探求は。



アドリア海の真珠


嵯峨野の竹林


ドゥブロヴニクと嵯峨野、すばらしい対照。

ちなみにドゥブロヴニクでは、Roma Alta Moda disk2の14曲目のCanto de Orfeo byEspiritoがよさげですね。

嵯峨野では、Talkie Walkie by Airの10曲目Alone In Kyotoがピッタリそうです。

だけど上の二つの場所は「例えば・・」の話に過ぎません。本当はこれが言いたかっただけです。


世界にはこんな風に美しくて、感情を揺さぶる場所がいくつもあるのに、人間にはいつも限界がある、その閉塞感に似た感じが憂鬱ですね・・







  
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